Wednesday, May 18, 2022

500円と5000円と幸福


ある日、友達に突然こう問いかけられた。

「次の2択の中で、どちらを選ぶ? A, 500円を貰って、自分で自由に使える。B, 5000円を貰って、その後に全額を誰かにあげなければならない。」

質問を聞いた瞬間、脳内に「これは、罠のある質問だ」という考えしか浮かばなかった。いわゆる、Aを選ぶ人はこんな性格であろう、一方Bを選ぶ人はこういう性格を持っていそう、そういうよくあるタイプの質問だ。

疑問点が多い中、「私だったらBの方。」と答えた。

疑問を抱いた点は、少なくとも二つある。まずは、500円の方だったら、使い道が少なすぎる。ランチを買いたくてもこの価格でメニューを提供するお店は限られている。たとえ自分が500円貰ったとしても、喜びは薄いかもしれない。なので、500円の選択肢は私にとってはピンと来ない。もう一つの疑問点は、金額の差だ。なぜ一緒にしないんだろうかと思うし、10倍の差がある意味もどう考えても理解できない。金額が一緒となったら、自分の利益を優先してAを手放しづらくだろう。よってそんな環境を作りあげればよりいい勝負になるのだと、私は考える。しかも、500円と5000円を比べたら、自分は何も損などしない5000円のBを選ぶ人数の方が圧倒的に勝つんじゃないか、と友達に説明してみた。

私の疑問点を聞いた後に、友達が笑って言った。

「実は、これはインフルエンサーのひろゆきさんがやったツイッターの投票だった。」と教えてくれた。この投票は何日間もそのまま回答を受け付け、最終的には133千人が投票したらしい。圧倒的にBの勝ちだろう、と思いきや、私の推測は大外れで、むしろAと答えた人のほうが多かった。割合でいうと、B48.7%で、A51.3%だ。差はそんなに出なかったけれども、確実にAがリードした。

興味深い投票と結果に釣られ、投票を行ったひろゆきさんの説明動画を見てみた。ひろゆきさんによると、これは実際にカナダのある大学で行われた研究だそうで、ひろゆきさんが選択肢を少し変えて、再調査を行ったらしい。結果に驚いたひろゆきさんが、「理由あって、選択肢を工夫した」と説明した。

このカナダの大学の研究は幸福感に関係があるらしい。Aの人は自分のことしか考えていなくて、500円で幸せになる側だ。一方Bの人は周りの人に配慮して、5000円を人にあげる。この5000円を貰った人は消費することによって、経済を回すことになる。つまり、Bの場合は、幸せになるのは自分だけではなく、色んな人なのである。

そして、研究の結果によると、人は寄付や奢りなど、とにかく誰かに何かをあげたら、幸福感が長く続くというのだ。

この結果はハーバード大学が行った研究の結果と似ている。この心理学の研究の結果によると、収入と幸せは密接に関係しているのだが、一定の額を超えると、この関係は崩れてしまい、そのことによって、幸福感がだんだん薄らいでいくらしい。この点で、研究者らは幸福感が保てる「8つのルール」、お金の使い道について提案する。提案の一つは「自分のためでなく、他人のためにお金を使おう」ということで、まさにひろゆきさんとの言葉と一致している。

私が感じたもう一つの面白かったことは選択肢を変えた理由である。5000円は結構高い金額であり、誰かにあげたらきっと貰った人が幸せになれるから、こっちの選択肢に誘導する、という仕掛けがあったそうだ。ただ、Aの投票者はこの点を検討せず、迷わずAの方へ。

つまり、自分の持っている物を誰かと共有したら幸福感に繋がる可能性が高い、という結論。この結論には同感で、「まあ、たしかにそうでしょうね」と思いつつ、興味深い研究だった。
  

Thursday, February 3, 2022

Kucing Hitam dan Gelas dari Nenek


 

       Seekor kucing hitam sekonyong-konyong melompat ke arahku. Tubuhku limbung, tanganku melepaskan gelas yang tengah kupegang. Aku sendiri berputar agak oleng demi menghindari si kucing, dan tangan kiriku melayang demi menjaga keseimbangan. Naas, bukannya keseimbangan yang kudapat, justru tangan kiriku ini menyambar serangkaian benda pecah belah di dekatku. Dalam waktu tak begitu lama, bunyi barang pecah—yang lebih terdengar seperti dentuman bom di kupingku—memenuhi ruangan.

     Sementara si kucing dengan seenaknya keluar rumah lewat pintu depan, pintu yang sama yang tadi ia masuki. Ia meninggalkanku dalam keadaan tercengang.

    Kupandangi beberapa benda yang pecah berantakan. Benar-benar berantakan, karena beberapa pecahan masih ada di rak ketiga, tempat tanganku tadi menyambar. Beberapa lagi turun di rak pertama, dan sebagian besar mengotori lantai.

     Dengan berjingkat, kulangkahi semua pecahan-pecahan itu. Ah, kucing itu membuatku rugi setengah mati.

    Benda pecah-belah yang kupecahkan tadi adalah koleksiku, yang kukumpulkan dengan susah payah, melalui beragam pengorbanan. Anda juga tentu tahu, mengumpulkan koleksi tidak mudah. Lihat saja perjuangan para pengoleksi perangko. Filatelis itu bahkan harus mengeluarkan barang yang tidak sedikit demi perangko langka. Atau kisah para pengoleksi action figure berbagai tokoh. Bahkan yang hanya diproduksi beberapa unit dan harganya selangit, mereka rela membelinya. Demi apa? Tanya saja pada mereka.

     Aku masih lebih beruntung, karena belum pernah merogoh kantong demi koleksi-koleksiku. Hanya perlu mengeluarkan uang sejumlah ala kadarnya untuk kumasukkan dalam amplop, dan berharap semoga kedua mempelai bahagia. Selebihnya? Aku makan-makan sampai kekenyangan, tertawa-tawa dengan kawan-kawan yang juga hadir, dan koleksiku bertambah satu. Atau lebih, jika teman-temanku tadi mau memberikan milik mereka untukku.

    Betul, kuakui upayaku untuk mengumpulkan koleksiku sangat minimal. Jangan kaubandingkan dengan kolektor-kolektor yang tadi sudah kusebutkan. Tapi seperti juga sudah kubilang tadi, hancurnya benda-benda kesayanganku ini membuatku rugi. Sebab sebuah gelas mungil pemberian almarhum nenekku juga pecah. Gelas itu berada di antara koleksiku yang lain. Kata nenekku dulu, gelas tersebut berusia lebih tua daripada buyutnya buyutnya nenek—entah berapa generasi sebelum nenek.

Kemarin aku mendapat pesan pribadi dari seseorang. Ia mengutarakan minatnya untuk membeli gelas tersebut seharga tiga puluh juta rupiah.

 

 

                  

                   

Thursday, January 13, 2022

「チャレスポ!TOKYO」に参加して感じたこと


初めて「ボッチャ」という言葉を聞いたとき、特に何も思うことがなくて、かわいい名前だなとしか考えていなかった。私はだいたい、「チャ」が入っている名前は可愛いと思う。それでも可愛さだけで興味を引かれたのは人生で初めてかもしれない。結構前から私の知っていたペタンクという競技と似ているこのボッチャは、元々脳性まひの障害者のために作られ、パラリンピックにおいて初めて競技として採用されたのは1984年のことだそうだ。

 

このボッチャという言葉を初めて聞いてから三か月後。私がボランティアの活動のために参加しているANICという団体の代表者から「十月の体育の日、ユニバーサルスポーツ体験が荻窪であります」というメールが届いた。申し込みを終え、体験日までワクワクが止まらなかった。体験したことがある他のボランティアによると、「簡単そうだが、いざやってみたらそうではなかった」「ボールを投げるだけなのに、あんなに難しいとは思わなかった」「以外とボールを投げるには技術が必要」という、どれも似たような感想が聞かれた。

 

体験日。時間が限られていたこともあって、ボッチャとユニカールという競技をやってみた。体験後の、同行者の友達と:「案外難しかったけど、とても楽しかったね」と話した。なかなかボッチャ(ユニカールもそう)の体験ができず、今度機会があったら絶対に見逃してはいけない、と自分に言い聞かせた。

 

すると、ある日ツイッターでチャレスポ!TOKYOの広告が偶々目に入ってきた。そして、「ボッチャ」についてもこの広告のポスターに書いてあった。想像しづらいほど独特なセンスのタイトルはさておき、どんなイベントか分からないまま受付の予約をした。

 

そして、去年の1219日に東京国際フォーラムに足を運んだ。このビルの外には私の好物、Ya Kun Kaya Toastのお店があるため、少しだけ寄って名物のカヤトーストを口に入れてもいいかな、と一瞬の迷いもあったが、時間に余裕がなかったため、すぐにチャレスポの入口へ向かった。有楽町店舗のカヤトーストは今度食べに行くつもりだ。

 

ホールに入ったら、色んな種類のパラスポーツのエリアが並んでいた。体験可能な競技は広々としたエリアの中に道具があったが、一方で、体験不可能な競技はユニホーム、競技の説明表、道具などが展示されているだけであった。

 

入口の左側のすぐのところはフライングディスクのエリアであった。フリスビーと何が違うんだろう、と思いながら受付に地図表を見せ、スタンプを貰った。備え付けられた3つのゲームの中で、真ん中のゲームには一番長い列ができていた。3メートル先にある、番号の付いた9つのパネルに向かってディスクを投げ入れるゲームだった。その時、パネル越しに何かを叩き音をたてているスタッフさんがいて、その音を頼りに、盲目の体験者が音の方向に一所懸命ディスクを投げた。3号→番?5号、6号、7号、9号のパネルにディスクが入った。ディスクが入る度、私は気づかず拍手をした。それを見てこのゲームもやってみたくなったが、並んでいる人があまりにも多すぎたから、誰も体験者がいない三番目のゲームに挑戦した。3メートル先にある直径2メートルの大きな輪にディスクを投げ入れるゲーム。10枚のディスク中、輪に入ったのは6枚だけだった。

 

フライングディスクを後にして、次に私は車いすバドミントンを体験した。私の前に並んでいるのは車いすで来場した一人の男性だった。20分順番を待った後、やっと自分の番が来た。車いすに乗るとかの競技の下準備を手伝ってくれるスタッフさんは一人しかいなかったため、私はしばらく待った。その間、さっきの男の人の手伝いを観察した。一分間も経たない間に、この男の人はコートに入り、ラケットを振り始めた。軽快な動きで車いすの方向を転換し、ラケットを振る姿は素晴らしかった。私もそのあとコートに入り、2分後に、車いすの方向転換の際にラケットと車輪のハンドリムの間に手を挟んじゃったり当たったりしたことによって、掌に少し痛みを感じながら、車いすバドミントンのエリアから離れて行った。

 

その後、メインステージで開催されていたパラリンピック・オリンピックのメダリストのトークショーを聞きながら、ふと友達の言葉を思い出した。日本以外に米中英、シンガポール、ベトナム、インドネシアに住んでいたことがあるこの日本人の友達が、「自立している障害者を街でよく見かける国は日本のほかにはない。」と教えてくれた。私はインドネシアと日本にしか住んでいたことがないから、他の国の様子は見たことがないが、思い返せば確かにそうだった。

 

インドネシアは障害者の安全を優先しない国だと考えられる。歩行者通路は駐車場になっていたり、印の→移動をサポートする黄色いブロックが突然途切れたり、電柱や木が途中でドンとあらわれたり、テレビなどにも字幕がなかったりする。障害者自立支援制度はあるかどうか分からないが、あるとしても実際の社会で生かされていないように思う。この支援がないことによって、高い壁を越えていかないといけない自立が更に難しくなるだろう。実家が裕福な家庭じゃないとほぼ家で時間を過ごし、社会に出る余裕はない。

 

インドネシアにおいてPancasilaと呼ばれている建国五原則のひとつ、「全国民にたいする社会正義」という五番目の原則は全国民に対するもれなく平等な扱いを指している。この熱心→熱意/情熱?は原則として心に留めた上で、日常生活でも実践する必要がある。このチャレスポのようなイベントを通して、障害のある人とない人がお互いのことを思いやり、みんなが楽しめる社会になれば良い。